雑穀のみのる頃、七二候では“禾乃登”(こくものすなわちみのる)と呼ばれています。
禾(のぎ)は稲や稗、粟や麦などの穀物の総称でその穂先にある細い毛のことですが、穂を垂らした稲を描いた象形文字で、漢字の禾の部首の字は稲などの植物に関連します。
アワの実がみのる穂先には様々な型があり、実を区分するために穂先の型に名前がつけられています。円筒や円錐、棍棒(こんぼう)や紡錘(ぼうすい)糸を紡いだ型、猿手や猫足となんとなく型がイメージされる名前が付けられていますので楽しめます。
この雑穀がみのる“禾乃登”頃、海では鰯は脂がのり美味しくなり“海の米”や“海の牧草”と呼ばれ、魚たちの食糧になるそうですから面白いですね。鰯が群れをなして泳ぐ姿が稲の穂や牧草に見えますね。先人たちのネーミングに感心します。
秋にみのる雑穀たちは、俳句の秋の季語として先人たちに詠まれています。
粟(あわ)では芭蕉や正岡子規、高浜虚子が詠んでいます。
よき家や雀よろこぶ背戸の粟 芭蕉
鳴子きれて粟の穂垂るるみのりかな 子規
山畑の、粟の稔りの、早きかな 虚子
稗(ひえ)の俳句では、
稗めしの中の稗つぶ冷めやすし 加藤知世子
稗抜くや月西国へゆくごとし 庄司圭吾
黍(きび)や唐黍(からきび)では蕪村や芥川龍之介も詠んでいます。
黍刈て檐(のき)の朝日の土間に入る 子規
古寺に唐黍を焚く暮日かな 蕪村
唐黍やほどろと枯るる日のにほい 芥川
俳人や小説家の日常に詠まれた雑穀たちの風景が活々と蘇ってきます。益々、一派一絡げに雑穀と呼べない気がします。食の歴史がもつ雑穀個々の文化を感じます。
雑穀が主食の時代は、餅はあわ餅、ひえ餅、きび餅が作られていたようで、私たちに馴染みのあるのは万葉集の“桃太郎神話”のきび団子ではないでしょうか。
鬼たいじに行く桃太郎が“きび団子”で犬、猿、きじを家来にしましたが一番美味しい餅がきび団子だったからだそうです。
室町から江戸時代には、あわ餅、ひえ餅、きび餅も栄養豊富な庶民のお菓子として手軽に団子として茶屋で売られていたようです。
餅は平安時代には鏡餅の文化が広がり神に供える魔除けと健康を願ってのハレの日の食べ物でした。
あわは古事記にも登場し奈良時代には米と粟が正規の租税として使われていましたし、ひえも古事記の保食神(うけもちのかみ)の神話に出てくる冷害に強く常に飢餓を救ってきた作物で名前の由来も冷えに強いことから“ひえ”と付いたそうです。
雑穀は現代のレガシーですね。
約20万年前アフリカで誕生したホモ・サピエンスは、4万〜5万年前にアジア東部へ到達し日本列島には3万5千年前ごろにやって来たと云われていますが、まだはっきりしません、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録され日本人のルーツとともに古代人の多彩な暮らし方に注目されています。
石器時代の洗練された道具や縄文時代のユニークな土偶や土器と弥生時代の定住と耕作と古代の暮らし方は謎に満ち、ロマンです。
北東北の縄文遺跡群の発掘、研究から少しづつ生活の姿がわかって来ています。狩猟から作物の農耕とともに、雑穀と呼ばれているひえ、あわ、きびが主食になり煮る、焼く、蒸す、蓄えるなどの調理の暮らしが根ずいてきたことが解明され、衣食住の生活インフラは今も変わらないことが証明されてきました。
北秋田市のハケノ下遺跡の発掘調査からも縄文時代から平安時代への長い暮らしの文化が見えてきました。
“冷えに強いから、ひえ”と呼ばれ土壌も選ばず寒さにも強い超優等の救荒作物で稲が伝わる以前からの古代食です。常に飢饉を救ってきた栽培作物として「日本書紀」の保食神の神話に登場する食物です。
「あわ・粟」は縄文時代には栽培が始まっていて麦より珍重され「古事記」にも登場する作物です。奈良時代には米とあわが正規の租税として使われ明治の始めでも米よりあわの栽培量のほうが多かったそうです。名前の由来は、「味が淡いから」あわと呼ばれ、阿波の国はあわが多く栽培されていたからとか。ひえ、あわは古代食の主役だったのですね。
「きび・黍・黄米」は、古代中国では最高級の主食で日本には、ひえ、あわより遅れて伝わり奈良時代の「万葉集」に登場します。
桃太郎の鬼征伐に「ついて来るならあげましょう、きび団子」とありますから、今のように“十把一絡げ”で雑穀と呼ばれるのも心外ですね。21世紀のスーパーフードなのにね。
中国の少数民族、ミャオ族はタイやミャンマーなどにも住む山岳民族ですが、お祝いの時には餅をつき、稲の収穫が終わる“収穫祭”には日本と似た大きな鏡餅をついて神々に供えるそうです。文字を持たないミャオ族は歌を唱って民族の物語を伝承しています。
「もち米はまだ熟れてないか
うるち米はとっくに倉の中に入ったで
うるち米は言った“さあ来いよ、来いよ”
もち米は言った「まああわてるな!”
熟れたおまえは先に行け
熟れたらおれもあとから行くわい
おまえは先に酒になれ
おれはあとから餅になる
酒はアチャオの結婚祝いに
餅はチンタンの新室宴に」
こんな歌で雑穀文化を伝承しています。宮崎県のひえつき節もあり、ミャオ族の藍染や刺繍、餅つきと日本文化のルーツを感じますね。
※歌詩出典:岩佐氏健 訳「ミャオ族民間長歌
一万年続いた縄文時代は現代の二千年程のカレンダー文化と比較すると気が遠くなります。今、縄文文化がブームで全国で縄文遺跡の発掘が進み、狩猟の道具や生活土器に付着したタネの痕跡、祭礼に使われた土偶など暮らしの様々な姿が解明されてきました。
弥生時代になって定住生活が始まると、農耕文化も定着し稲作も始まって暮らし方の形式は現代に近づいてきました。
人類の長い食文化を振り返り、ノルウェー政府は100国以上の支援を受けて「スヴァールバル世界種子貯蔵庫」を2008年に永久凍土層の地下に設けて約4000種、93万品種のタネを冷凍保存しています。この「シードバンク」が人類の未来を支える基盤かと思うと少し勇気がもてます。
人類誕生と付き合ってきた長い歴史のある雑穀たちは“自然のシードバンク”としてスーパーフードの地位を繋いでいることに、改めて雑穀の価値を感じます!
世界の人口がこれから“増から減”に変わると伝えられていますが本当でしょうか。人口減は食糧生産や労働力、市場や流通と大きな変化をもたらすことになります。
これまでのファストフードやファストライフの台頭から食の見直しが始まりそうです。
1984年イタリアから始まった“スローフード運動”が本格的に再出発するのではないでしょうか。
地産地消の徹底、地域の素材を活かした食生活や食文化の再考。
環境に配慮した作物の生産や伝統食の注目、生産者と生活者をつなげる地域づくり。
食問題や課題の正しい情報発信と生活習慣病を根本から改善する取り組みが必要です。
人類が築いたスローフードの食文化雑穀食の伝統を今一度、辿る時代です。
スーパーフード雑穀は、ウィズ コロナへの新しい“スタートアップ”をします。
奈良時代になって白米が貴族の主食として登場し、鎌倉~江戸時代には白米はあこがれの食料で主食とは程遠い存在でした。
昭和16年、米穀配給制度が始まり、31年にはコシヒカリが登場し「白米主義」が浸透し、集約的な栽培管理、施肥の進歩、高い収量を上げる育種、品種改良、大農式農法と近代農業技術が“雑穀”を駆逐することになります。
昭和56年、食糧管理法が廃止され米の配給制度が終わったのが56年前ですから夢の白米食の座も短かった気がします。
一方、雑穀は一絡げにされ人類の歴史とともに食の道を歩み続けてきたことを考えると“雑穀文化財”として未来につなぐべき食材ですね。21世紀に入って植物栄養素が注目されそのエビデンスが健康の維持増進を支えるスーパーフードとして浮上しています。飽食の時代、人生100年時代と言われる今、改めて“雑穀文化財”としてその意義を問うスタートアップが始まっています。
今では「そば」は麺として食べるため雑穀呼ばわりをしませんが、古くはアワやキビと同じ雑穀でした。高知県の遺跡からは9,000年以前のそばの実が出土しています。そばの実は奈良や平安時代には粒としてそば粥で食べられたり飢えを凌ぐ非常食でした。麺になったのは江戸時代からで、そばがきとそば切りと区別され「切そば」はファストフードとして広がりました。近年蕎麦屋のメニューに韃靼そばが加わりましたが、1840年にドイツの植物学者ゲルトネルがモンゴルに住むタタール民族が古くから栽培していたため彼らを表す“韃靼”から「韃靼そば」となったそうです。少し苦味があるのが特色ですがポリフェノールの「ルチン」の含有量が普通のそばの120倍も多く、毛細血管の弾力を上げ血圧降下作用を高め、成人病予防に有効と高く評価されています。そば粥やそば茶としても粒や粉もありますが「そば」は雑穀から自立したスーパーフードですね。